おそるべき、秋葉原の言語感覚

2013.8.14 | TEXT

今日、独りで秋葉原をトボトボ歩いていた。
すると、居酒屋の客引きの女の子に声を掛けられた。どの街でもある出来事だが、秋葉原が違うのは、その娘がちょっと幼な可愛いく、オタクの空気をまとっていたこと。
そのときのフレーズが、これだ。

「一緒に、飲み飲みとか、しちゃいませんかー?」

めずらしくクラッときている自分に驚く。なぜだろう?
いつもは自動的に耳をスルーさせて聞き流す客引きのフレーズ。
しかし、もし後に打ち合わせが入っていなかったら、つい飲み飲みとかに行ってしまいそうな衝動に駆られ、それに自分自身が驚いていた。
なぜ、このときの秋葉原フレーズは僕の気持ちを揺さぶったのか?
飛び乗った山手線のなかで、その理由を分析を行った。
そこで秋葉原の言語感覚のすごさを思い知ることになる。

分節に分解してみる。

「一緒に/飲み飲み/とか/しちゃいませんかー?」

一緒に >> あ、一緒なんだ

飲み飲み >> 飲むだけじゃなく、飲み飲みなんだ

とか >> とか? 他にもあんのかな

しちゃいませんか >> しちゃうくらいなら、まあいいかな

四つの文節のすべてに罠が仕掛けてある。
そして、ひとつの分節にも無駄がない。
僕の脳はごく素直に、
「一緒に/飲み飲み/くらいなら/しちゃっていいかなー」
と反応していたのだ。

この研ぎすまされたトラップフレーズの構成。もはや洗練された文学の域だ。

あー、一緒に飲み飲みとかしてー。