ロストモダン・シティ

2003.8.5 | TEXT

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上海、北京に行って来た。

覚悟はしていたが、それでもやはり驚いた。この国は近代という時間がぽっかり抜け落ち、いきなり21世紀に突入している。

とにかく変化に飢えている。スタックした50年を5年で取り戻そうとしているため、風景は10倍早回しで移り変わっているようだ。

最先端のデザインや洗練は、迷わずコピーする。結果としてモダン以前のフォーマットにもっとも新しいデザインが上塗りされる。その両者には連続性はない。

ただ、それがあまりにも乱暴に行われているためさわやかでさえある。

確実に言えるのは、中国最大のこの二つの都市は、さまざまな意味ですでに東京を凌駕しているということだろう。僕は正直、ショックだった。

写真はホテルの部屋の窓からのものだ。眼下には1900年代初期に建てられた石積みの民家がベターっと貼り付いている。その際に高層ビルが突然立ち上がる。おそらく来年にはこの低層住居群はなくなっているだろう。

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ホテルの隣には「虫」の市場があった。朝、やたらと虫の声が響いているので、声のする方向へと路地に入り込んだらコオロギやら見たこともない巨大なバッタらしきものやらを売っている。地元のおやじたちがそこに集まってなにやら賭事をしている。闘虫らしい。彼らはこんな虫に財産をつぎ込んでいるらしい。

これらの風景を見ていると、国という概念とは何なのだろうか? とふと思う。

国という概念の重要性がさらに薄らいでいくように思えた。最近、取材や仕事でいろんな国に行くけど、この旅でその感覚はさらに強まった。その代わりに新しい集団単位のようなものが見えてきた気がした。

国境というのが空間的にタテに区切った領域だとするならば、ヨコ方向に新しいレイヤーができている。その水平に広がるレイヤーに国境は関係なく、感性やらイメージなど抽象的なものでまとまりを見せている。レイヤーを共有していれば簡単に国境を越えコミュニケーションが成立する。 今回、僕はいくつかのプロジェクトのプレゼンテーションで上海と北京を訪れたのだが そこで出会った人々とは、まるで同じような環境下で同じような教育を受けたかのように感性のようなものを共有できたような気がした。まあ、錯覚かもしれないがそれは今から徐々にわかっていくことだろう。とにかく、10年前までは共産主義社会で赤く染められていた状況下で長年生活をしてきた人々と、共通のデザイン言語で話せるということに驚いた。

スターバックスも中国ではこうなってしまう

スターバックスも中国ではこうなってしまう

中国風のスターバックスもどき

中国風のスターバックスもどき

人間の適応能力とはいったい何なのだろう。ほんの十数年前には市民に向けて発砲していた共産主義の街のはずだが、天安門のすぐ近くの路上でさえ東京よりよほど派手な広告が溢れている。考えられないほど巨大なショッピングセンターがある、そしてそこで売っているのは高級ブランドばかり、価格は日本より高い。

中華民族、華僑のしたたかさを改めて目の当たりにした。

世界中どんな都市に行っても不思議と存在する中華街、 彼らは生まれながらにしてコスモポリタン。今回会った香港人は一週間の間に香港>上海>北京>上海>香港…と移動しまくっていた。まるで東京と宇都宮くらいの感覚だ。この人たちにとっては、あらかじめ国という単位など関係ないのかもしれない。

それでも中国は共産党の国だ。国土を所有しているのは国家である。でも、それが土地に縛られない理由にもなっていた。というのは、例えば巨大な高層ビルを建てる場合でも、その土地は国から「借り」なければならない。どうやら20年間だけの定期借地で、その後、その建物が建った土地がどうなるのかはわからないらしい。「法律なんて、ここではすぐ変わる」と、国を信用している素振りなどない。「そんな先が見えない状況でガンガン投資をして不安じゃないのか?」と、上海で活動する香港のディベロッパーに聞いてみた。

「この街では5年先を見ているやつはいない。5年後はずっと先の未来だ」

いつのまにか、東京はゆっくりした街になってしまったのかもしれない、と思った。

 

*こちらの記事はWEBマガジン「REAL TOKYO」に「ロストモダン・シティ」というタイトルで掲載された記事です。

(文=馬場正尊)

 

TDB-CE 東でもTOKYO DESIGNERS BLOCK

2003.8.5 | TEXT

 

D.U.M.B.O.外観 撮影:阿野太一/Daici Ano

D.U.M.B.O.外観
撮影:阿野太一/Daici Ano

D.U.M.B.O.ギャラリー 撮影:阿野太一/Daici Ano

D.U.M.B.O.ギャラリー
撮影:阿野太一/Daici Ano

先週末、青山周辺では東京デザイナーズブロック(以下、TDB)が行われた。4回目になるこ のイベントも、もう秋の風物詩のようになっている。「街全体をフィールドにする」というコンセプトが好きで、僕も毎年、何らかのかたちでこのイベントに参加している。

そして今年は、東京デザイナーズブロック・セントラルイースト(以下、TDB-CE)を行うことになった。そのイベントは、10月ではなく、一ヶ月遅れの11月7日~16日まで、日本橋や神田を中心としたエリアで行われる。

「なんだ、この長い名前は?」と言うなかれ。これはR-projectで僕がもっともやりたかったことだ。

昨年、R-bookの取材のときNYで印象的な街を見た。そこは「ダンボ」と呼ばれるマンハッタンブリッジのブルックリン側の足下、巨大な橋桁を目の前に望む一帯で、「ダンボ」とはD.U.M.B.O.「Down Under the Manhattan Bridge Overpass」の略である。すっかり寂れた街だったが、1997年、D.U.M.B.O.Art Festivalが開かれて以来、ここはNYでの新しいアートの震源地のひとつに数えられるようになっている。それに伴い、カフェやレジデンスができはじめコミュニティさえ形成され始めていた。

「こんなことを東京でやってみたい」

この街の変化の物語は、僕の記憶に、なにか決定的なインパクトを与えた。その後、東京に戻って日本橋一帯の状況に出会うのである。そのプロセスは、この日記のなかでたびたび書いている。

NYはアーティストの移動が新しいエリア開発に繋がっていくことが多い。古くはソーホーもチェルシーもそうだった。東京でもそれを起こしてみたい。その第一歩が、TDB-CEである。

こういうことは雑談の中から突然生まれるもので、ただ、その偶然は継続的な活動のなかでしか生まれない。TDB-CEもそうだった。それはアジールデザインの佐藤さんの、ふとした拍子に言った一言で始まった。もちろんその背景には、八丁堀を中心にした武藤くんたち(IDEE/R-project)やCNN(中央区ネイティブネット)の面々、神田でのテレデザインの活動、日本橋での僕らの動きが背景にある。TDB-CEは、それらの流れを合流させるに、うってつけの言葉だった。

ではTDB-CEって一体何なのか?

東京の東側に散在する空きビルが一週間だけギャラリーになる。それをオリエンテーリングのように見て回る。街全体がギャラリーとなるという点で、TDBのコンセプトを継承している。ただし、青山では街に溢れるおしゃれなアパレルショップやカフェなどに作品が展示されるが、TDB-CEの場合は、街に溢れる空きビルが展示空間となる。溢れてる空間の種類がまったく違う、そのコントラストがそのまま東京の西と東のギャップを象徴しているように思う。

そもそも空いたオフィスとギャラリーとして必要な空間はその性質が似ているんじゃないだろうか。ガランとしていて、なにもない。

観客はアートを見に来て物件に出会う。物件を見に来てアートに出会う。街にとってはどっちもハッピー。

というわけで、僕らスタッフは、今、ビルオーナーさんを説得している。

「一週間だけタダで貸して下さい。多くの人がアート作品と一緒に、あなたのビルを見に来ます。もしかすると、この空きビルを気に入って借りてくれる人も出るかもしれません。そもそも、アートというのは……、NYでは……、これから東京の東側は……」と。

アーティストにも協力を仰いでいる。彼らは、快く協力してくれる。合法的なスクウォッタリングだ。

キックオフイベントが行われた。会場は神田の路上。通りの一部にテーブルが並び、ビールとバーベキューがズラーっと置かれた。ビルの壁にはプロジェクターが照射され『ニューシネマパラダイス』を思わせた。アーティストやスタッフと地元の商店街の人たちの人口比はちょうど半分づつ。めずらしい光景であるのと同時に、なんだかとても懐かしい気がした。

たった三週間しかない。さて、どこまでやれるのか。勢いで始まったプロジェクトである。

今年は「このエリアでの、なにかの始まり」をうっすらと伝えることで精一杯かもしれない。しかしNYの「ダンボ」も、初年度はそんなもんだったと、ディレクターのジョン・グリデンは言っていた。それを信じて、まずは動き出す。

キックオフイベント

キックオフイベント

キックオフイベント

キックオフイベント

 

*こちらの記事はWEBマガジン「REAL TOKYO」に「TDB-CE 東でもTOKYO DESIGNERS BLOCK」というタイトルで掲載された記事です。

(文=馬場正尊)