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小さな農家


時期:2006.10
所在地:茨城県守谷市
クライアント:個人
用途:個人住宅


東京郊外に小さな農家を設計した。住所は茨城県守谷市。一見、はるか遠くのように感じる住所だが、実際はつくばエクスプレスで秋葉原から35分、中央線に置き換えると新宿-国立くらいの時間距離でしかない。

お施主さんはごく普通のサラリーマン。定年退職まであと5年あって、都心のオフィスまで通勤しなくてはならない。定年後はがんばり過ぎない程度の農家をやってみたいと思っている。映画も観たいし、美術館にも行きたいので長野の山奥にひっこむわけではない。都会のインフラは享受しつつ、同時に喧噪を離れた田舎の空気も味わっていたい、というわけだ。そこで選ばれたのが守谷という土地だった。

何かを犠牲にするわけでもなく、すべてをバランスよく手に入れる。その力の適当な抜け具合が心地よく見えた。極めて合理的な判断の上で、この場所が選ばれている。

僕はこの仕事中、頻繁に守谷の現場に通ったのだけど、神田にある事務所からはすぐ、という印象だった。しかも守谷は始発電車が多いので必ず座っていけるのだ、まどろんだと思ったらもう着いている。

いつしか、僕はこんなエリアを「新しい郊外」と呼ぶようになった。

それは積極的に、ある目的意識を持って住む郊外である。今まで郊外はベッドタウンと呼ばれ、まるで東京に通うため、文字通り寝るために帰る街という意味が強かった。そこには都心は高くて狭いので、仕方なく住むというニュアンスが染みこんで、どこか悲しげですらある。しかし、この守谷の住宅にはそんな影の印象は微塵もない。人生にとって何が大切で、そのためには何を洗濯すればいいのかが冷静に判断されている。答えは「農業」であり、必要な空間は「畑」だった。

この家の中心は畑である。畑を取り囲むように家が建っている。

畑はとても小さいが「まあ、慣れない農業を練習しながら始めるにはちょうどいい大きさ。余裕があれば、またどこかに拡大すればいい」ということらしい。確かにいきなり大きな畑を与えられても手に余るだろう。

土間が畑に着き出していて、収穫した野菜はまずそこに上げられる。地下を掘って引き込んだ井戸水がたっぷり出る屋外の炊事場で泥を洗い流す。土間はそのままキッチンへとつながっている。昔の農家と同じ空間構成だ。

お風呂も畑に面していて、汚れた作業着を着たまま直行。服は隣の洗濯機に投げ込んで、そのままドブン。お風呂は流行のビューバスで、自分が育てている野菜たちを一望しながら湯ぶねに浸かる。都心の夜景ではなく、昼間に緑を眺めながら入るお風呂なのだ。こんな風に、すべてに畑が中心のプランになっている。

ただし新興住宅地なのでセキュリティは重要ということで、庭である畑は塀で囲まれたりしていて、既存の農家っぽくない。それが気にはなっていたが、郊外の農家の姿を象徴的に表しているようで、最近は妙に納得している。

僕の父の実家は九州の本格的な農家で、米、ミカンを中心にいろんなものをつくっていた。子供の頃は収穫を手伝ったりすることもあった(まあ、遊び程度だったと思うが)。納屋と母屋の位置関係や、土間と台所のつながりなど、農家特有のプランを思い出しながら配置を決めて行った。まさか、そんなことが役に立つとは思ってもいなかった。たぶん妙にリアルな農家プランになっていると思う。でも床暖房が完備されていたり、巨大スクリーンが天井から自動で降りてきてサラウンドスピーカーで大迫力の映画が見れたりと、充実した住宅機器が装備されている。なつかしい風景を最先端の設備が支えている構図。郊外の農家は、そのアンバランスが魅力でもあるのだ。

この仕事をしながら、お施主さんに気が付かさせてもらったのが、本質的な意味の便利で心地いい生活は、どうしたら実現可能かということだった。答えは「素直さ」。自分の生活のイメージを淡々と見つめて無理せずに必要なものを選択するセンスのようなもの。都心生活でもない、かといってスローライフのような田舎暮らしでもなく、リゾートでもない。日常の延長線上にも両者を満たす環境が存在している。都市と地方の中間領域、「新しい郊外」にはまだまだ魅力的な風景が広がっているのだ。

このお施主さんは、畑の一部に堆肥を溜めて肥料にしている。もちろん生ゴミもすべて肥料。エアコンは基本つけない。そのかわり風通しと断熱性には気を配ったが、それでこの冬は十分だったらしい。そのどれもが特別なことではなく、畑の維持と自分たちにとっての快適さの追求という、ごく素直な必要性から導かれたものだった。僕はその「素直さ」を、そのまま素直にデザインしただけ、そしてできたのが、この「郊外の小さな農家」。